当山は、海東山と称し浄土宗の寺である。旧上宮田岩井口の十劫寺の子院であった。
本尊は十一面観音(應行作)で、三浦観音十番札所である。古より“今井の観音さま”と呼ばれ広く親しまれている。また、堂内に三浦地蔵尊礼所十番の延命地蔵尊を安置する。境内に三浦五井の一つ今井あり。
地名はこれより起こるという。
当山の由来を尋ぬるに、住古今井の四郎兼平(信濃国筑摩郡の人)、出陣の折この地に仮屋を設け給う。その旧跡は今井農長谷川清左衛門敷跡にあり。
その後、鈴木某なる者、大道心を発願し、彼の兼平の仮屋を持ち来たり一宇を建設し、海東山三樹院と号し、十劫寺末と改む。
然るに本尊無之処、宝永五年(1709)江戸芝増上寺遍誉了海上人四十六歳のとき、應行上人作の十一面観世音菩薩、笈来、寄付して当山の本尊と改め、三浦三十三観音の札所にし給う也。
十一面観世音菩薩像(江戸期) ・・・三浦三十三観音札所十番
薬師如来像(江戸期)
阿弥陀如来像(江戸期)
明治時代、当山近くの芝原に住んでいた房州屋の長島ハツさんが、藤沢遊行寺の開山忌に馬車で出かけたとき、野比の尻擦坂まで来ると、何に驚いたのか、馬が急に暴れだし、松林の中に飛び込んで馬車は大破した。ところが本人には何の異常もなく無事だったことから、これは日頃念じている観音さまのお陰だということで、観音さまにお参りし絵馬を奉納したのだという。
また、子宮癌を患ったハツさんが、観音さまの徳によって癌が治ったことや、火災に遭ったとき、隣家に燃え広がらないように観音さまに念じたところ、自家は全焼したものの、隣家への類焼は免れたという話も伝えている。